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Wednesday, November 10, 2021

「小羊うるちゃんの冒険」小さい白い小羊の価値観

 長い冒険の旅路の中で仲間と離れざるを得なくなった出来事※1があり、小さい白い小羊は「会」の集まりを休会にしました。拠点を見つけて7年経った頃のことでした。仲間と別れた小さい白い小羊は、4日にわたる日本人講師による特別な聖会に足を運んだのですが、その初日に、小さい白い小羊は、くすぶっている思いをイエスさまにぶつけてみました。「多くの教会に集っている羊たちが、母教会で養われ、温和に信仰を送っているのに、みことばをいただき、握り締めて歩んだにもかかわらず、なぜ自分は教会をああいった形で追われ、今までの教会から引きこもりたくなるような道を歩まなければならなかったのでしょうか。」

 

 イエスさまは黙っておられましたが、次の日、あるみことばが小さい白い小羊のところに飛び込んできました。「勇士よ、主があなたといっしょにおられる。」(士師 6:12)のギデオンの召命のみことばでした。弱々しくなっているギデオンに語られたこのみことばを繰り返し読んでいると、慰められているように感じてうれしくなってきたのです。
うれしくなった小さい白い小羊は、聖書を開き、後に続くみことばを読んでみたところ、昨日ぶつけた問いは、「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」(士師 6:13)と聞いたギデオンと同じようなことばであったことを知ったのでした。

 

 聖会ではダニエル書が開かれ、メッセージの中で、講師が次のように語り、小さい白い小羊の心の奥に響いてきました。「ダニエルは自分で望んでバビロンに来たわけではないのです。『親がここに住もうと決めたから』ではありません。誰かのせいとか、人のせいとかではないのです。バビロン捕囚は、先祖の罪のためだと主はマナセが王であった時に言われましたが、それはダニエル自身には無関係な事でした。ダニエルがバビロンに連れてこられたのは、ただ神の計画であり、ダニエルはバビロンで神への信仰を歩んだのです。」
昨夜よぎった思い「なぜ自分は…」の主からの明確な答えでした。心をふさぐもやもやした思いをご存知である神を実感した時でした。

 

 元気は出ましたが、なかなか思うようにいかない中、やめるようにも語られないので、「会」を放り出すわけにもいかず、祈りの中で、主に尋ねてみました。「「羊の国で起こっている問題」を扱うための「会」に召してくださっていると思って今までやってきましたが、うまくいきませんでした。一体何をすればよい「会」なのでしょうか。」今までも、問題はわかっているが、自分の手に負えるとは思えず、何をするのかあいまいな事柄でした。祈っているうちに、Ⅱコリント5章という箇所が浮かんだのでした。読んでいると、次のみことばが目にとまりました。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Ⅱコリント 5:18-20)「会」を開く時にも、主から開いたことのあるみことばでした。今までの歩みは、「和解の務め」のため、通る必要のある道であったことを再認識したのです。
黙想していると、「和解の反対は何か?」と主に問われました。「分裂…?分派…?」(反対語辞典では決裂であった) 小さい白い小羊は、母教会にいた時から、マルチン・ルター以来から、分裂を繰り返し、ばらばらになっているプロテスタント教会の不必要な分裂について祈っていました。受洗前にカトリック教徒である雌羊から「プロテスタント教会は、いくつもの教派があり、ばらばらで異端も排出しているのに。」と言われ、人々のつまずきとなっていることを聞いていたからでもありました。

 

 「和解の務めといっても、精一杯努力しても、決裂ばかりで、仲間を手放さざるを得なかった最近の出来事※1も、結局、だめであったではないか。「和睦するにも時がある」と神の時があることは信じたいが…。」小さい白い小羊は疲れていました。

 

 すると、講師がメッセージの中でディビット・ウィルカーソン師の話をされたのです。「彼は、7人のギャングに会いに行くようにと神に語られ、ニューヨークに行ったのですが、結局、何にもならず、かえって放り出され、7人とは会えないまま、今の世界的な働きがあるのです」と語られたとき、その言葉に、主の語りかけから始まって今まで来た道が思い起こされ重なってきたのでした。今まで、何にもなっていなくとも、主からではなかったということではないということが理解できたのでした。その時、ご聖霊がいつもと違った感覚でかけめぐっていったのを感じたのです。

 

 また、次のみことばも与えられました。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(エゼキエル 11:19)

 

 聖会の最後に、講師が言いました。ビジョンを達成するためには①情熱 ②訓練期間 ③しぶとさの3つが必要だと。
かつては、熱い情熱を持って、信仰生活を送っていた。訓練期間も長く経験している。昔から、あきらめが悪いしぶとさは、肉親からも指摘されている。講師の言われたビジョンを受けるための3つは持っていた。それでもビジョンがあっても何もできない自分しかいないところが悩ましく思えたのでした。

 

 続くみことばに、ギデオンの問いかけへの主の答えが書かれていました。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師 6:14) あなたの「その力」で従えばよいのだということが、主が用意してくださっていた答えでした。

 

 はっきりとキリストの神性を否定している「異端」や、反社会的・破壊的な行為を繰り返す「カルト」ではない「異なる教え」を自らの正しさをもって上から裁くのではなく、キリストの愛によって真理を語り、兄弟愛と忍耐をもって、すたれることのない本物だけが最後には残るのだということを堅く信じ、神の国を治めつつ、誤りに陥っている羊たちを成長へと導く⇒その結果、分裂・分派となったところに、主自身によって和解・一致が起こり、麗しいキリストの栄光がキリストを信じる群れの中に起こること
これが、神の国が治められるように願っている小さい白い小羊の価値観なのです。
「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ 5:15)と聖書は教えているからです。

 Hitsuji

小さい白い小羊は、いつか、「肉の心」(エゼキエル 11:19)が与えられた羊と出会うことを今も信じているのです。

 

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 ※1 離れた仲間は、経験を積んだ7年後に、戻ってきました。



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「小羊うるちゃんの冒険」part 3 冒険の終わり

 大きな牧場を拠点にし、そこで、小さい白い小羊は、問題の根深さを知ったゆえに「羊の国で起こっている問題」を扱うための「会」としての活動を始めることにしました。

 

 小さい白い小羊は、思いました。問題の改善には、羊の国全体の意識改革が必要だと。
「知恵の欠けた人がいるなら、・・・願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ 1:5) 大牧者に委ねられている羊の国を治めないと羊の国は弱り果ててしまう、そう思った小さい白い小羊は、このみことばを握り、知恵が与えられるように願いつつ、進んでいくことにしたのです。

 

 拠点には、多くの動物たちが出入りしていました。
小さい白い小羊が知っている大牧者であるキリストなる神とは違う同姓同名のキリストが語られることもしばしばありましたが、この羊の世界ではよくある事で、肉を満足させるようなメッセージが人気を博すこともあり、例え、小さい白い小羊が疑問を投げかけても、重要なこととは思われず、吟味もされないまま、一過性の通り雨のように過ぎ去っていくのでした。

 小さい白い小羊は、主の栄光のためのPhoto_20211110214501働きをしたかったのですが、どこを見渡しても、見いだせずにいました。どこも同じ・・・、年月が経つうちに小さい白い小羊は、だんだん心を押し殺し、動くようになっていました。

 

 そんなある日、小さい白い小羊は、拠点に招かれてやってきた宣教師を名乗る講師の手伝いをすることになりました。短い間でしたが、いろいろな羊や動物たちが入り乱れ、中には異なる教えをもって過激に行動する動物たちがいました。が、この羊の世界では珍しいことではなかったので、自分がしっかりして正しいことを伝え続けていれば、なんとか正常な軌道になると思っていました。が、何とかできるものではないことを知った時、手伝いをやめ、なすべきことをし(周囲への注意喚起)、主に委ねることにしました。こうして、小さい白い小羊は、異なる教えとの聖別(聖め分かつこと)の重要性を、痛みを通して学んだのです。

 

 拠点を離れることにした小さい白い小羊は、異なる教えに対応している専門家と呼ばれている雄羊たちのもとを訪ね歩きました。

 

 しかし、そこにも、小さい白い小羊が求めているキリストの姿は見いだせませんでした。
長い冒険旅行の経験を積み重ねてきた小さい白い小羊は、メッセージや交わりの中で、自らの正しさと自分の働きを誇るような言動が喜ばれているところに身を置き続けることができない身体になっていました。羊の国の外では起こらなかったのですが、羊の国内でそのような状況になると、まずセンサーが反応し、続くと嫌悪感を覚え、状況が変わらないとストレスとなって、早めにケアしないと心身に変調が表れるようになっていました。必要な忍耐ならば有益ですが、有害となるため、その場にはいられなくなるのです。聖書の中の大牧者であられる神は、厳しさも正しさも持ち合わせていましたが、その原動となっているものは私たちへの広く長く高く深い愛でした。大牧者を慕う羊たちは、大牧者の似姿に近付けてくださるように願いますが、誰も大牧者になることはできませんし、その大牧者が共におられることを知っているなら、自分を誇ることはできないでしょう。

 

 小さい白い小羊は、様々な分野で研究をしている研究者たちを知っていましたが、彼らは対象をさまざまな角度からよく調べ、分析を重ねて、慎重に討論を重ね、成果を発表します。
臨床に携わるカウンセラーたちをも知っていましたが、彼らは、クライアントの話に耳を傾け、その人に応じた見立てをし、必要に応じて、他のカウンセラーや機関に橋渡しをします。
宗教的なことだから別ということはなく、基本は同じはずです。
小さい白い小羊の大牧者であり、Wonderful Counselorでもあるキリストは、そういった研究者やカウンセラー、また医師たち以上に私たちを熟知していて、不思議な癒しを与えてくださるお方です。

 

 牧するように召されていない小さい白い小羊は(教師と違い、牧羊の働きはそれなりの適性が必要です)、異なる教えについて熟知していて、教派による壁を持たないような、牧する使命を受けた同じキリストの価値観をもった同労者を探していましたが、冒険の旅路では見つけることができませんでした。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ 7:7)と言われる主は、必要すべてを与えてくださっているのにもかかわらず、その同労者だけは、長年、祈っても、捜しても、たたいても、見つかりませんでした。
主からは、「待て」という答えばかりが返ってくるのでした。
ある時ふと、小さい白い小羊は、思いました。「側にはいつもイエスさまがいてくださり、満たし、助け、導いてくださっている。他に何が要るのか? 見たくないものを見続けて、忍耐していても、益とはならないではないか。与えられないものをもっともっとと求めるのではなく、与えられている環境の中、主の存在を喜んで過ごすことが大切なことではないか。そうしていくと、この世を去る時に、振り返って、主がなしてくださったことに感謝しかない人生になるのだろうなぁ・・・。」

 

 「みんなが聞いてくれなくても、同労者がいなくても、イエスさまがいるからまあいいか!」小さい白い小羊は、すがすがしく前を向いて動物たちの中を歩みだしました。

Yukainakama

 小さい白い小羊は、泉の湧く川のほとりに来ました。水面に映った自分の姿は、もう小さくはありませんでした。

Kawa
Fin.

 

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