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Tuesday, March 16, 2021

「小羊うるちゃん物語Ⅳ」part 3 突き刺された傷 ― 救いのために ―

  【前回の登場人物】
    うるちゃん  : 主人公
    へいわくん  : 夫
    サイエンくん : 長男
    マーサさん  : B教会で知り合い友人になったクリスチャン
    W宣教師   : W教会を開拓した宣教師
    Sさん(母娘): Tカウンセリングスクールに来ていた家の教会の伝道師
    Y先生    : K教会の主任牧師
    Kさん    : Tカウンセリングスクールに来ていた求道中の女性
    Tさん    : Tカウンセリングスクールに来ていたクリスチャン
    F牧師    : F教会の女性牧師

「小羊うるちゃん物語」閲覧にあたっての注意事項

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  K教会につながり、そして5ヶ月・・・
  ※ 2000年5月13日(日)の落ち穂の会の礼拝で話したメッセージの内容です。

『突き刺された傷 ― 救いのために ―』ゼカリヤ書 12章(新改訳聖書使用)

回想

Ansoku 木曜日の朝、母教会であるA教会で受けた心の傷の処理について思いを巡らせていたときのことです。三年半前、B教会に(教会ですが)駆け込み寺のごとく飛び込んだ初めての家庭集会の日、口の中で聖霊によって祈り、「キリストにはかえられません」の賛美を目を閉じて歌っていた時、血が出ている大きな傷を追った一匹の羊がイエス様のもとによろよろと寄って行く場面が現れました。その時の私は、飼われていた牧者によって大きな傷を受けた無力な若い羊でした。この三年半の間、いろいろな取り扱いがあり、学びもたくさんありましたが、最もつらく苦しい時に与えられたこの「イエス様のもとに来た傷を負った羊」の幻が、どんな時も私を支えてくれました。

 今、思いもかけなかった場が与えられ、一筋の道が開かれたと一息つくことができました。去年のクリスマス礼拝で、K教会へ行った二回目のことでしたが、Y先生に祈っていただいた時、聖霊様に、「この牧者は、あなたの傷を包み、あなたの牧師不信は癒されていく。」という印象をいただきました。そのような語りかけを受けても、私の待ちくたびれた心は、さめていました。とはいっても、主に導かれてきた道なので、どこかで期待もしていました。

 思い起こして見るならば、駆け込み寺のごとく飛び込んだB教会のB主任牧師の長男のB1牧師のメッセージによって、聖書の恵みが開かれ、心に受けた傷は癒されていきました。私にとっては、受けたことがない深く大きい傷だったため、完治するのに一年半かかりました。その後、治って痛みを感じないはずの傷のリハビリの期間、主の励ましと荒療治があったからこそ、なんとかここまで進んでこられました。

 心の拠り所にしていた教会でのショックからか忘れることができなかった三年半前の1996年12月19日(木)、母教会であるA教会での出来事があったあの時、A牧師と私と幼稚園児だった息子の三人だけしかいない、誰も見ていなかったあの時、あの部屋で、主はどこにいてくださったのか、信仰によって信じていたに過ぎない、ぼんやりとしかわからなかった主のおられた位置を、一年くらい前でしょうか、主は、私に明かしてくださったことがありました。獅子(ライオン)が、我が子を強くするために崖から突き落とすように、イエス様は心が弱かった私を強めるために、ご自身の愛によって見守っていてくださったことを知ったのでした。ライオンは、そのような育てられ方をして、百獣の王となっていくのだとも教えてくだいました。またひとつ、主の愛を知った思いがした出来事でした。

 九ヶ月前くらい、コミニュニティハウスのような聖書的なキリストの愛に基づいたクリスチャンの集う場所、心から主を求め、行き場を失った羊のための礼拝の場、そのようなビジョンをいただいて、B教会を出されてから続いていた1998年11月よりの家での礼拝を開放しました。主は、「落ち穂を拾え。」とイザヤに語られたみことばをもってささえてくださいました。「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」(Ⅱ列王記 19:29-31) 同時にマーサさんの方にも語ってくださったようでした。

 このような話をすると、決まり文句であるかのようにある種のクリスチャンは言うのです。「赦しなさい。」と。赦すとか、赦さないとか、そのような次元で、私は人に語ってはいないのですが、聞く耳を持ってはくれないのです。そのように語る人は、この数年間、私がどのような取り扱いを受けて、どのような気持ちで、ここまで通ってきたのかを知らないはずなのですが、話そうとすると判で押したように言うのです。「赦しなさい。」「祈ってあげます。」と。たとえ、私がその人たちが思っているような赦せない心を持っていたとしたなら、私が欲しいのは、そのような厳しい言葉一つではないと思います。その言葉は、「赦せないあなたも悪いのよ。」と責めているからです。

 その人たちは、昨今の事件のように無残に殺された被害者の残された家族に向かっても、「赦しなさいよ。」と言えるのでしょうか。何の心のケアもせずに、そんなことを言うことがその人をどんなに苦しめることなのか、考えなくても、幼い子供にでもわかることでしょう。いやむしろ、幼い子供のほうがわかるのかもしれません。

 最愛の夫を亡くし、心が病んでいる年老いた主にある女性に、「元気を出して、がんばりなさい。信仰を働かせなさい。」と忠告したとして、よけいに落ち込まないでしょうか。よけい病むのではないでしょうか。その言葉によって、自殺に追い込むかもしれないような言葉であることを知ってほしいのです。

 そのような弱さの中にいる人にとって必要なのは、そばにいて、共に歩むことではないでしょうか。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ 12:15)のみことばのようにです。そうして初めて、許さないといけない心がその人の心に存在していれば、その人が正しくみことばを聞いた時に主ご自身が取り扱ってくださるのです。

 実際に私が、三年半の間、失望せずに歩めたのは、イエス様はもちろんなのですが、多くの離れて行った人がいた中に、わずかでありましたが、へいわくんやマーサさんを含むそのような兄弟姉妹たちがいてくれたからでした。家で礼拝することになった時に与えられていた一つである、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13:5)というみことばを信じて、ただその言葉に頼ってここまで来られたのです。実際には、行くことができる、受け入れてくださる教会がない現状は、周囲にもあざけられ、見捨てられたように見られても仕方のないものでした。

 

ビジョン

 初めの話に戻りますが、木曜日の朝のこと、心の傷の処理について、祈りに思いを寄せていた時、傷跡についての語りかけをいただきました。その時見た幻では、私の傷は、跡が残るほどの大きな傷でした。イエス様のお受けになられた十字架の傷とは、比較にならないのですが、祈りの中での幻の中、十字架の傷跡と私の傷跡を重ねてくださったのです。イエス様を、ユダヤ人たちは、「除け。除け。十字架につけろ。」と言って、除いてしまいました。そのように、イエス様もひどい拒絶にあわれたのだと。そのように、イエス様もひどい拒絶にあわれたのだと。いつもそのように自分を励まして来たのですが、その時は、はっきりとそのことを教えてくださったのでした。まさに、「キリストの打たれた打ち傷によって、いやされた」(Ⅰペテロ 2:24参照)体験でした。同時に、イエス様は、トマスに証しとしてその傷跡を見せられたこと、見せることが必要だったこと、傷跡を隠したりなくしたりするのではなく、それを見せて、証ししていくことが、多くのたましいの救いにつながるのだということを語ってくださったのでした。実を結べなくなっている一人のクリスチャンを助けることで、失われている多くの実を結ぶようになるということも…。

 私のような落ち穂を出さないために、教会を指導しておられる立場の先生方に知ってほしいことがあります。時が来るまで告げる機会もないだろうと思いますが、自分の気持ちを整理する上で、この場を借りてこの機会にまとめてみることにしました。教会を指導しておられる立場の先生方にとっては、数多くいるうちの一人の羊であるかもしれません。どこかで、元気に信仰を送るだろうと納得して平安を得ているのかもしれません。しかし、知ってほしいのです。たとえ元気に信仰生活を送っていたとしても、心に受けた傷はいつも深く眠っているのだということを。

 私がかつて所属したB教会のB主任牧師は、戦時中の迫害下に、主にある兄弟に先代が告発されたことで、数十年たった今も傷を抱えていました(本人は認められないかもしれませんが、語られていた言葉からは許していない思いが伝わってきていました)。そして、その傷を子供たちにも伝えていました。Tカウンセリングスクールで出会ったカトリックのおばあさんは、隠れキリシタンの末裔だと言っていましたが、当時からの理解されない傷を代々受け継いで抱えておられました。まして、幼い羊にとって、神の民である教会を指導しておられる立場の先生方から受けた傷は、癒されがたいものであるということを知ってほしいのです。教会を指導しておられる立場の先生方を通しイエス様を知り、頼りにしている何の聖書知識も権威も持っていない幼い羊にとって、拠り所としていた教会で味わった拒絶は、いきなり谷底に突き落とされたように感じるということを。

 イエス様は、みもとに来た人を、決して切り捨てたりはなさいませんでした。あのイスカリオテ・ユダであっても、最後の最後まで共にいて、見限ることをなさらなかったのです。失敗したペテロを、イエス様が、切り捨ててしまっていたなら、ペンテコステ以降の大収穫(リバイバル)は違ったものとなっていたはずです。私に限るならば、「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(使徒 5:38,39)という態度を取っていてくださっていたなら、かつていたどこの教会においても平和に過ごせたことと思います。永遠のつながり、天において、喜びを共に受ける信仰における育ての父と信じ、三年間、単純に聖書を信じ、心を砕いて祈ってきた指導者に、突然激しい拒絶にあった者の気持ちは、一言では語り尽くせないのです。他のことならばともかく、離れたり忘れたり捨てたりできない神の世界の中で受けた傷は、真剣であればあるほど、癒されたとしても、忘れることはできないのです。一つ一つが、信仰の歩みとなっているのですから。ただ、それを益にしてくださる神がいるということだけを信じて歩むことになります。人からの拒絶にまさる神の恵みの中にとどまり続けるだけです。

 

落ち穂

 これまでに、いろいろなところを通り、教会の内外を問わず、落ち穂の多いことに驚きを覚えています。その皆が同じような境遇であるわけではありませんが、私と同じような境遇の人もいました。中には、腐って悪臭を放ち、臭くなってしまっているかのように見える人(傷によって毒舌を吐いて、信念をもってみことばから離れる人々)もいました。きちんとケア(キリストにある愛による対応)をしていれば、輝いて、イエス様のかぐわしい香りを放っていたかもしれない実が、です。私自身、B1牧師からの教え、Tカウンセリングスクールでの知恵ある学び、Y先生という柔和で広い器による助けがなかったなら、腐って落ちてしまったかもしれません。このような現実を伝えるために話したとしても理解してくださる方は多くはいないことを経験上、よく知っています。教会から落とされた穂「落ち穂」に出会ったある牧師先生は、次々にそのような方に出会っても、その事実を受け止めようとはなさいませんでした。目の前に何人いても、信じたくないようでした。自分にも心当たりがあることだったのか、ある方を自殺にまでも追い込んでいたという経験も通っておられたからでした(きちんと悔い改めるべきところを悔い改めて進んでいるならば、失敗を通ったとしても証となっていることです)。そのような「落ち穂」に出会うにつれ、心を固くしていかれました。人一倍頑張っているという自負がある指導者にとっては、知りたくもない事柄のようでした。一生懸命に、イエス様のために心身を粉にして、献身して来られている教会を指導しておられる立場の先生方にとっては、心外に思われることだと思いますが、決して少なくない教会で起こっている現実です。傷から言っていることではありません。知り合いのクリスチャンの中にもいるのです。昨年通っていたTカウンセリングスクールでは、珍しくないくらい頻繁に出会った問題でした。昨年、C教会で訪問伝道をした中にも、結構いました。教会に尋ねてくる人の中にもいます…。これを放置すると、数年後には、教会にはキリストが見えなくなってしまうことになるでしょう。

 同じ日(心の傷の処理について思いを巡らせていた木曜日の朝)に、主は、ゼカリヤ書のあるみことばを開いてくださいました。

 

ゼカリヤ書の背景

 ここで、ゼカリヤ書が書かれた背景を述べておきます。

 ゼカリヤは、バビロン捕囚からの帰還の民が、神殿の再建中、度重なる異邦人たちの妨害に苦労していた時期に、神殿再建に当たっていたゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ますために送られた預言者です。ゼカリヤ書は、二部に大別でき、14章あるうち、1章から8章までが神殿の再建中に臨んだメッセージ、あとの9章から14章までが神殿完成後のメッセージです。メシアについての預言も多く、豊かな啓示が含まれている書物です。特に、第二部ではメシヤの初臨、再臨についてだけではなく、未来の終末的な出来事に関しての啓示として与えられたことが記されています。

 70年ものバビロン捕囚を経験したユダの民は、困難で苦労の多かった神殿再建の工事が完成するや、気が緩みはじめました。神殿は完成したのですが、国家の回復は起こりそうにもありませんでした。大きな試練を脱出したそのような時は、油断もさることながら、次第に全能の神から目が離れ、世俗的な事柄に目が奪われるものです。

 エゼキエル34章には、自分を肥やしている牧者としいたげの中にある羊の姿が描かれていました。そのような宗教的堕落が、イスラエル国家を離散させる結果に追い込んだのでした。そのような時代でしたが、ゼカリヤ書の第二部で、ゼカリヤは将来への希望と救いを語っているのです。宗教的堕落と残りの民への救いについてです。イエスの受難を語ると同時に終末における患難時のことをも語っていると思えてなりません。パウロは、「主の日は、背教の後、起こる。」と述べている。「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」(Ⅱテサロニケ 2:3)そして、ペテロは、「さばきが神の家から始まる」(Ⅰペテロ 4:17)と言っています。これを我が身に起きないように回避するには、一人一人のクリスチャンがキリストの律法(神への愛と人への愛)に立つ決意をし、自分を吟味して、兄弟愛をもって仕え合うことが大切なのです。

 

エルサレムの救い

 木曜日の朝、ゼカリヤ 12:1-14を読んだ時、主が語られることに、私がどんなときにも不動に固く立つなら、大丈夫だよと主が励ましてくださったような心地がしたのです。私が励まされたように、キリストにある者にとっては、同じ励ましを受ける個所ではないかと思います。

 ここに、主の民への神の徹底的な守りが描かれています。要約すると、「神がエルサレムを守っておられるので、これを攻撃しようとする敵のほうがかえって混乱に陥り、ついには自分たちの上に滅亡を招くことになる」ということです。

 ここで、エルサレムは三つのもので表わされています。「よろめかす杯」(12:2)「重い石」(12:3)「たきぎの中にある火鉢、麦束の中にある燃えているたいまつ」(12:6)

① エルサレムはそれを取り囲むすべてのものに対して「よろめかす杯」となる。「よろめかす」とは神の怒りとさばきを表わし、ぶどう酒を飲むようにたやすく敵はエルサレムの血を流そうとするかもしれないが、実はそれは彼らにとって毒杯になると言う。

② エルサレムは、これを奪い去ろうとするすべてのものに対しては「重い石」となる。人生において一度、徹底的に神によって砕かれた経験のある者を、神は誰も動かすことのできない「重い石」としてくださる。そして、それを自分のもとに奪おうとする者は、逆に傷を受けてしまう。

③ ユダの指導者たちはその周囲に対して「たきぎの中にある火鉢」「麦畑の中にある燃えているたいまつ」のようになる。「彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。」(12:6)

 この前章では、次のようなことばがあります。数ヶ月前に読んだ個所です。「私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった。私は言った。『私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。』」(11:8、9)

 12章10節以降を見てみましょう。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」(12:10-14)ここに書かれているように、ひとりひとりが、罪への嘆きをもって、同輩のためにとりなし、主の恵みを受けとってほしいと思います。この個所によると、それぞれのところから嘆きをもって、受けとめることができるのは、多くはいないようです。しかし、ひとり、またひとりと出てくることを言っているように聞こえたのです。

 この後の13章では、「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。・・万軍の主の御告げ。・・牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。」(13:7-9)となっています。これは、イエス様の受難のことですが、黙示的な要素を含んでおり、何重もの内容が語られていることだと思います。三分の二が滅びることのないために。

 私の教会放浪は、完全数の三つでぜひとも終わりにして欲しいです。願わくば、私の教会放浪記は、これで完結することを祈ります。ここまでは、三つだったけれど、完全数の七つの教会が待っている、ということにならないように主にお願い申し上げます。

 

 

 

落ち穂の会

 

 

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