Wednesday, November 10, 2021

「小羊うるちゃんの冒険」小さい白い小羊の価値観

 長い冒険の旅路の中で仲間と離れざるを得なくなった出来事※1があり、小さい白い小羊は「会」の集まりを休会にしました。拠点を見つけて7年経った頃のことでした。仲間と別れた小さい白い小羊は、4日にわたる日本人講師による特別な聖会に足を運んだのですが、その初日に、小さい白い小羊は、くすぶっている思いをイエスさまにぶつけてみました。「多くの教会に集っている羊たちが、母教会で養われ、温和に信仰を送っているのに、みことばをいただき、握り締めて歩んだにもかかわらず、なぜ自分は教会をああいった形で追われ、今までの教会から引きこもりたくなるような道を歩まなければならなかったのでしょうか。」

 

 イエスさまは黙っておられましたが、次の日、あるみことばが小さい白い小羊のところに飛び込んできました。「勇士よ、主があなたといっしょにおられる。」(士師 6:12)のギデオンの召命のみことばでした。弱々しくなっているギデオンに語られたこのみことばを繰り返し読んでいると、慰められているように感じてうれしくなってきたのです。
うれしくなった小さい白い小羊は、聖書を開き、後に続くみことばを読んでみたところ、昨日ぶつけた問いは、「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」(士師 6:13)と聞いたギデオンと同じようなことばであったことを知ったのでした。

 

 聖会ではダニエル書が開かれ、メッセージの中で、講師が次のように語り、小さい白い小羊の心の奥に響いてきました。「ダニエルは自分で望んでバビロンに来たわけではないのです。『親がここに住もうと決めたから』ではありません。誰かのせいとか、人のせいとかではないのです。バビロン捕囚は、先祖の罪のためだと主はマナセが王であった時に言われましたが、それはダニエル自身には無関係な事でした。ダニエルがバビロンに連れてこられたのは、ただ神の計画であり、ダニエルはバビロンで神への信仰を歩んだのです。」
昨夜よぎった思い「なぜ自分は…」の主からの明確な答えでした。心をふさぐもやもやした思いをご存知である神を実感した時でした。

 

 元気は出ましたが、なかなか思うようにいかない中、やめるようにも語られないので、「会」を放り出すわけにもいかず、祈りの中で、主に尋ねてみました。「「羊の国で起こっている問題」を扱うための「会」に召してくださっていると思って今までやってきましたが、うまくいきませんでした。一体何をすればよい「会」なのでしょうか。」今までも、問題はわかっているが、自分の手に負えるとは思えず、何をするのかあいまいな事柄でした。祈っているうちに、Ⅱコリント5章という箇所が浮かんだのでした。読んでいると、次のみことばが目にとまりました。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Ⅱコリント 5:18-20)「会」を開く時にも、主から開いたことのあるみことばでした。今までの歩みは、「和解の務め」のため、通る必要のある道であったことを再認識したのです。
黙想していると、「和解の反対は何か?」と主に問われました。「分裂…?分派…?」(反対語辞典では決裂であった) 小さい白い小羊は、母教会にいた時から、マルチン・ルター以来から、分裂を繰り返し、ばらばらになっているプロテスタント教会の不必要な分裂について祈っていました。受洗前にカトリック教徒である雌羊から「プロテスタント教会は、いくつもの教派があり、ばらばらで異端も排出しているのに。」と言われ、人々のつまずきとなっていることを聞いていたからでもありました。

 

 「和解の務めといっても、精一杯努力しても、決裂ばかりで、仲間を手放さざるを得なかった出来事※1も、結局、だめであったではないか。「和睦するにも時がある」と神の時があることは信じたいが…。」小さい白い小羊は疲れていました。

 

 すると、講師がメッセージの中でディビット・ウィルカーソン師の話をされたのです。「彼は、7人のギャングに会いに行くようにと神に語られ、ニューヨークに行ったのですが、結局、何にもならず、かえって放り出され、7人とは会えないまま、今の世界的な働きがあるのです」と語られたとき、その言葉に、主の語りかけから始まって今まで来た道が思い起こされ重なってきたのでした。今まで、何にもなっていなくとも、主からではなかったということではないということが理解できたのでした。その時、ご聖霊がいつもと違った感覚でかけめぐっていったのを感じたのです。

 

 また、次のみことばも与えられました。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(エゼキエル 11:19)

 

 聖会の最後に、講師が言いました。ビジョンを達成するためには①情熱 ②訓練期間 ③しぶとさの3つが必要だと。
かつては、熱い情熱を持って、信仰生活を送っていた。訓練期間も長く経験している。昔から、あきらめが悪いしぶとさは、肉親からも指摘されている。講師の言われたビジョンを受けるための3つは持っていた。それでもビジョンがあっても何もできない自分しかいないところが悩ましく思えたのでした。

 

 続くみことばに、ギデオンの問いかけへの主の答えが書かれていました。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師 6:14) あなたの「その力」で従えばよいのだということが、主が用意してくださっていた答えでした。

 

 はっきりとキリストの神性を否定している「異端」や、反社会的・破壊的な行為を繰り返す「カルト」ではない「異なる教え」を自らの正しさをもって上から裁くのではなく、キリストの愛によって真理を語り、兄弟愛と忍耐をもって、すたれることのない本物だけが最後には残るのだということを堅く信じ、神の国を治めつつ、誤りに陥っている羊たちを成長へと導く⇒その結果、分裂・分派となったところに、主自身によって和解・一致が起こり、麗しいキリストの栄光がキリストを信じる群れの中に起こること
これが、神の国が治められるように願っている小さい白い小羊の価値観なのです。
「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ 5:15)と聖書は教えているからです。

 Hitsuji

小さい白い小羊は、いつか、「肉の心」(エゼキエル 11:19)が与えられた羊と出会うことを今も信じているのです。

 

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 ※1 離れた仲間は、経験を積んだ7年後に、戻ってきました。



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「小羊うるちゃんの冒険」part 3 冒険の終わり

 大きな牧場を拠点にし、そこで、小さい白い小羊は、問題の根深さを知ったゆえに「羊の国で起こっている問題」を扱うための「会」としての活動を始めることにしました。

 

 小さい白い小羊は、思いました。問題の改善には、羊の国全体の意識改革が必要だと。
「知恵の欠けた人がいるなら、・・・願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ 1:5) 大牧者に委ねられている羊の国を治めないと羊の国は弱り果ててしまう、そう思った小さい白い小羊は、このみことばを握り、知恵が与えられるように願いつつ、進んでいくことにしたのです。

 

 拠点には、多くの動物たちが出入りしていました。
小さい白い小羊が知っている大牧者であるキリストなる神とは違う同姓同名のキリストが語られることもしばしばありましたが、この羊の世界ではよくある事で、肉を満足させるようなメッセージが人気を博すこともあり、例え、小さい白い小羊が疑問を投げかけても、重要なこととは思われず、吟味もされないまま、一過性の通り雨のように過ぎ去っていくのでした。

 小さい白い小羊は、主の栄光のためのPhoto_20211110214501働きをしたかったのですが、どこを見渡しても、見いだせずにいました。どこも同じ・・・、年月が経つうちに小さい白い小羊は、だんだん心を押し殺し、動くようになっていました。

 

 そんなある日、小さい白い小羊は、拠点に招かれてやってきた宣教師を名乗る講師の手伝いをすることになりました。短い間でしたが、いろいろな羊や動物たちが入り乱れ、中には異なる教えをもって過激に行動する動物たちがいました。が、この羊の世界では珍しいことではなかったので、自分がしっかりして正しいことを伝え続けていれば、なんとか正常な軌道になると思っていました。が、何とかできるものではないことを知った時、手伝いをやめ、なすべきことをし(周囲への注意喚起)、主に委ねることにしました。こうして、小さい白い小羊は、異なる教えとの聖別(聖め分かつこと)の重要性を、痛みを通して学んだのです。

 拠点を離れることにした小さい白い小羊は、異なる教えに対応している専門家と呼ばれている雄羊たちのもとを訪ね歩きました。

 

 しかし、そこにも、小さい白い小羊が求めているキリストの姿は見いだせませんでした。
長い冒険旅行の経験を積み重ねてきた小さい白い小羊は、メッセージや交わりの中で、自らの正しさと自分の働きを誇るような言動が喜ばれているところに身を置き続けることができない身体になっていました。羊の国の外では起こらなかったのですが、羊の国内でそのような状況になると、まずセンサーが反応し、続くと嫌悪感を覚え、状況が変わらないとストレスとなって、早めにケアしないと心身に変調が表れるようになっていました。必要な忍耐ならば有益ですが、有害となるため、その場にはいられなくなるのです。聖書の中の大牧者であられる神は、厳しさも正しさも持ち合わせていましたが、その原動となっているものは私たちへの広く長く高く深い愛でした。大牧者を慕う羊たちは、大牧者の似姿に近付けてくださるように願いますが、誰も大牧者になることはできませんし、その大牧者が共におられることを知っているなら、自分を誇ることはできないでしょう。

 

 小さい白い小羊は、様々な分野で研究をしている研究者たちを知っていましたが、彼らは対象をさまざまな角度からよく調べ、分析を重ねて、慎重に討論を重ね、成果を発表します。
臨床に携わるカウンセラーたちをも知っていましたが、彼らは、クライアントの話に耳を傾け、その人に応じた見立てをし、必要に応じて、他のカウンセラーや機関に橋渡しをします。
宗教的なことだから別ということはなく、基本は同じはずです。
小さい白い小羊の大牧者であり、Wonderful Counselorでもあるキリストは、そういった研究者やカウンセラー、また医師たち以上に私たちを熟知していて、不思議な癒しを与えてくださるお方です。

 

 牧するように召されていない小さい白い小羊は(教師と違い、牧羊の働きはそれなりの適性が必要です)、異なる教えについて熟知していて、教派による壁を持たないような、牧する使命を受けた同じキリストの価値観をもった同労者を探していましたが、冒険の旅路では見つけることができませんでした。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ 7:7)と言われる主は、必要すべてを与えてくださっているのにもかかわらず、その同労者だけは、長年、祈っても、捜しても、たたいても、見つかりませんでした。
主からは、「待て」という答えばかりが返ってくるのでした。
ある時ふと、小さい白い小羊は、思いました。「側にはいつもイエスさまがいてくださり、満たし、助け、導いてくださっている。他に何が要るのか? 見たくないものを見続けて、忍耐していても、益とはならないではないか。与えられないものをもっともっとと求めるのではなく、与えられている環境の中、主の存在を喜んで過ごすことが大切なことではないか。そうしていくと、この世を去る時に、振り返って、主がなしてくださったことに感謝しかない人生になるのだろうなぁ・・・。」

 

 「みんなが聞いてくれなくても、同労者がいなくても、イエスさまがいるからまあいいか!」小さい白い小羊は、すがすがしく前を向いて動物たちの中を歩みだしました。

Yukainakama

 小さい白い小羊は、泉の湧く川のほとりに来ました。水面に映った自分の姿は、もう小さくはありませんでした。

Kawa
Fin.

 

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Thursday, July 01, 2021

「小羊うるちゃんの冒険」part 2 拠点をみつけた !?

  小さい白い小羊の前に、「どなたでも歓迎します」という看板を掲げている教会が現れました。小さい白い小羊は、しばらくそこに滞在することにしました。
そこには知らずに加害者と協力している長老羊と雄羊たちがいたので、小さい白い小羊は、長老羊に言いました。「一致した働きを望んでいます。誤解を解きたく手紙を書いてきました。和解に向けた話し合いに立ち会って下さい。」
長老羊は言いました。「大げさになるから、したくない。手紙は僕が預かるから、出したと思いなさい。」
雄羊たちは声を揃えて言いました。「僕たちには全く関係ない事だ。赦して忘れる事だね。」
小さい白い小羊は、すべてをご存知の大牧者に委ねてその場を去りました。

 

 旅の先々で「許せるように祈ってあげよう」と追い回す雌羊たちをかわしつつ、小さい白い小羊は、問題の根の深さに思いをはせました。
小さい白い小羊は、羊を救うためには命を差し出すほどに羊を愛する大牧者を知っていました。汚れの中でもがき苦しんでいた時、救いだしてくださった大牧者を。小さい白い小羊は、自分を救ってくださった大牧者のみこころを行ないたい、お役に立ちたいと願っていましたが、なかなか思うようにはいきませんでした。Image
小さい白い小羊に対する大牧者の愛は広く、長く、高く、深いものでした。経験を積み実情を知り、困難に負けない力を育むよう、大牧者は小さい白い小羊を旅に向かわせたのでしたが、小さい白い小羊は、そうとは知らず、時にかなってやってくる助けに大牧者の姿を思いつつ、大牧者を慕いつつ旅を続けていたのです。

 

 小さい白い小羊のところに、「ここを拠点にしてもいいよ。」と言ってくれる牧者が現われました。喜んだ小羊は、訪れた後に失望しないようにと旅することになったいきさつと信条を書いた手紙を牧者に送りました。
手紙を受け取った牧者は、牧羊たちに説教しました。「昨日、こんな厚さの封書が届きました。前に南の島から同じような厚さの封書が届いた時は、『何だろう?』と思って開けたら、50シップ(羊の国で1シップは日本円で約1万円)の献金だったので、今回もと思ったら手紙でした…。読むのも大変なので、送るのはお金にするように。」
それでも、小さい白い小羊は、その牧者は大きな牧場を任されていて、多くの教会と交流もあったので、その大きな牧場で、羊の世界についていろいろ学べると思いました。また、小さい白い小羊は居場所を持たないということで他の羊たちからの非難に悩まされることがあったので、その煩わしさからも解放されると思いました。そうして、小さい白い小羊は、その牧場を拠点にすることにしたのです。

 

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Thursday, June 24, 2021

「小羊うるちゃんの冒険」part 1 小さい白い小羊は言いました

  小羊うるちゃんは、主による冒険の旅にでかけました。

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  小さい白い小羊は、みんなに向かって言いました。Uruuru
「(信仰における)居場所がありません、助けて下さい。」
雄羊Aは言いました。
「いくらでもあるではないか、許すべきだよ」
雌羊Aは言いました。
「裁くな。許しなさい。」
雄山羊Aも雌山羊Aも声をそろえて言いました。
「許しなさい。」
小さい白い小羊は、失望の涙を流しながらその場を去りました。

 

 小さい白い小羊は、みんなに向かって言いました。
「(信仰における)居場所がありません、助けて下さい。」
雄羊Bは言いました。
「無人島で孤独を感じていても、そのうち、船が通りかかるよ、船が来るまでそうしていなさい」
小さい白い小羊は、湧き出た疑問から、尋ねました。「その立派そうな船には乗せてもらえないのですか?」
雄羊Bは言いました。
「私は忙しく、今、有名な預言者を訪ねて異国に行く準備をしようとしているんだよ。」
小さい白い小羊は、あきらめの涙を流しながらその場を去りました。

 

 小さい白い小羊は、みんなに向かって言いました。
「(信仰における)居場所がありません、助けて下さい。」
雌羊Cは言いました。
Uruuru「自分から積極的に仲良くしようと努力しなければ、居場所なんてできないわよ。甘えてるわね。」
小さい白い小羊は、みじめさを振り切りながら、主を見上げつつその場を去りました。

 

 小さい白い小羊は、自活に向けて必要をそろえる旅に出ることにしました。   つづく…

 

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Tuesday, March 16, 2021

「小羊うるちゃん物語Ⅳ」part 3 突き刺された傷 ― 救いのために ―

  【前回の登場人物】
    うるちゃん  : 主人公
    へいわくん  : 夫
    サイエンくん : 長男
    マーサさん  : B教会で知り合い友人になったクリスチャン
    W宣教師   : W教会を開拓した宣教師
    Sさん(母娘): Tカウンセリングスクールに来ていた家の教会の伝道師
    Y先生    : K教会の主任牧師
    Kさん    : Tカウンセリングスクールに来ていた求道中の女性
    Tさん    : Tカウンセリングスクールに来ていたクリスチャン
    F牧師    : F教会の女性牧師

「小羊うるちゃん物語」閲覧にあたっての注意事項

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  K教会につながり、そして5ヶ月・・・
  ※ 2000年5月13日(日)の落ち穂の会の礼拝で話したメッセージの内容です。

『突き刺された傷 ― 救いのために ―』ゼカリヤ書 12章(新改訳聖書使用)

回想

Ansoku 木曜日の朝、母教会であるA教会で受けた心の傷の処理について思いを巡らせていたときのことです。三年半前、B教会に(教会ですが)駆け込み寺のごとく飛び込んだ初めての家庭集会の日、口の中で聖霊によって祈り、「キリストにはかえられません」の賛美を目を閉じて歌っていた時、血が出ている大きな傷を追った一匹の羊がイエス様のもとによろよろと寄って行く場面が現れました。その時の私は、飼われていた牧者によって大きな傷を受けた無力な若い羊でした。この三年半の間、いろいろな取り扱いがあり、学びもたくさんありましたが、最もつらく苦しい時に与えられたこの「イエス様のもとに来た傷を負った羊」の幻が、どんな時も私を支えてくれました。

 今、思いもかけなかった場が与えられ、一筋の道が開かれたと一息つくことができました。去年のクリスマス礼拝で、K教会へ行った二回目のことでしたが、Y先生に祈っていただいた時、聖霊様に、「この牧者は、あなたの傷を包み、あなたの牧師不信は癒されていく。」という印象をいただきました。そのような語りかけを受けても、私の待ちくたびれた心は、さめていました。とはいっても、主に導かれてきた道なので、どこかで期待もしていました。

 思い起こして見るならば、駆け込み寺のごとく飛び込んだB教会のB主任牧師の長男のB1牧師のメッセージによって、聖書の恵みが開かれ、心に受けた傷は癒されていきました。私にとっては、受けたことがない深く大きい傷だったため、完治するのに一年半かかりました。その後、治って痛みを感じないはずの傷のリハビリの期間、主の励ましと荒療治があったからこそ、なんとかここまで進んでこられました。

 心の拠り所にしていた教会でのショックからか忘れることができなかった三年半前の1996年12月19日(木)、母教会であるA教会での出来事があったあの時、A牧師と私と幼稚園児だった息子の三人だけしかいない、誰も見ていなかったあの時、あの部屋で、主はどこにいてくださったのか、信仰によって信じていたに過ぎない、ぼんやりとしかわからなかった主のおられた位置を、一年くらい前でしょうか、主は、私に明かしてくださったことがありました。獅子(ライオン)が、我が子を強くするために崖から突き落とすように、イエス様は心が弱かった私を強めるために、ご自身の愛によって見守っていてくださったことを知ったのでした。ライオンは、そのような育てられ方をして、百獣の王となっていくのだとも教えてくだいました。またひとつ、主の愛を知った思いがした出来事でした。

 九ヶ月前くらい、コミニュニティハウスのような聖書的なキリストの愛に基づいたクリスチャンの集う場所、心から主を求め、行き場を失った羊のための礼拝の場、そのようなビジョンをいただいて、B教会を出されてから続いていた1998年11月よりの家での礼拝を開放しました。主は、「落ち穂を拾え。」とイザヤに語られたみことばをもってささえてくださいました。「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」(Ⅱ列王記 19:29-31) 同時にマーサさんの方にも語ってくださったようでした。

 このような話をすると、決まり文句であるかのようにある種のクリスチャンは言うのです。「赦しなさい。」と。赦すとか、赦さないとか、そのような次元で、私は人に語ってはいないのですが、聞く耳を持ってはくれないのです。そのように語る人は、この数年間、私がどのような取り扱いを受けて、どのような気持ちで、ここまで通ってきたのかを知らないはずなのですが、話そうとすると判で押したように言うのです。「赦しなさい。」「祈ってあげます。」と。たとえ、私がその人たちが思っているような赦せない心を持っていたとしたなら、私が欲しいのは、そのような厳しい言葉一つではないと思います。その言葉は、「赦せないあなたも悪いのよ。」と責めているからです。

 その人たちは、昨今の事件のように無残に殺された被害者の残された家族に向かっても、「赦しなさいよ。」と言えるのでしょうか。何の心のケアもせずに、そんなことを言うことがその人をどんなに苦しめることなのか、考えなくても、幼い子供にでもわかることでしょう。いやむしろ、幼い子供のほうがわかるのかもしれません。

 最愛の夫を亡くし、心が病んでいる年老いた主にある女性に、「元気を出して、がんばりなさい。信仰を働かせなさい。」と忠告したとして、よけいに落ち込まないでしょうか。よけい病むのではないでしょうか。その言葉によって、自殺に追い込むかもしれないような言葉であることを知ってほしいのです。

 そのような弱さの中にいる人にとって必要なのは、そばにいて、共に歩むことではないでしょうか。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ 12:15)のみことばのようにです。そうして初めて、許さないといけない心がその人の心に存在していれば、その人が正しくみことばを聞いた時に主ご自身が取り扱ってくださるのです。

 実際に私が、三年半の間、失望せずに歩めたのは、イエス様はもちろんなのですが、多くの離れて行った人がいた中に、わずかでありましたが、へいわくんやマーサさんを含むそのような兄弟姉妹たちがいてくれたからでした。家で礼拝することになった時に与えられていた一つである、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13:5)というみことばを信じて、ただその言葉に頼ってここまで来られたのです。実際には、行くことができる、受け入れてくださる教会がない現状は、周囲にもあざけられ、見捨てられたように見られても仕方のないものでした。

 

ビジョン

 初めの話に戻りますが、木曜日の朝のこと、心の傷の処理について、祈りに思いを寄せていた時、傷跡についての語りかけをいただきました。その時見た幻では、私の傷は、跡が残るほどの大きな傷でした。イエス様のお受けになられた十字架の傷とは、比較にならないのですが、祈りの中での幻の中、十字架の傷跡と私の傷跡を重ねてくださったのです。イエス様を、ユダヤ人たちは、「除け。除け。十字架につけろ。」と言って、除いてしまいました。そのように、イエス様もひどい拒絶にあわれたのだと。そのように、イエス様もひどい拒絶にあわれたのだと。いつもそのように自分を励まして来たのですが、その時は、はっきりとそのことを教えてくださったのでした。まさに、「キリストの打たれた打ち傷によって、いやされた」(Ⅰペテロ 2:24参照)体験でした。同時に、イエス様は、トマスに証しとしてその傷跡を見せられたこと、見せることが必要だったこと、傷跡を隠したりなくしたりするのではなく、それを見せて、証ししていくことが、多くのたましいの救いにつながるのだということを語ってくださったのでした。実を結べなくなっている一人のクリスチャンを助けることで、失われている多くの実を結ぶようになるということも…。

 私のような落ち穂を出さないために、教会を指導しておられる立場の先生方に知ってほしいことがあります。時が来るまで告げる機会もないだろうと思いますが、自分の気持ちを整理する上で、この場を借りてこの機会にまとめてみることにしました。教会を指導しておられる立場の先生方にとっては、数多くいるうちの一人の羊であるかもしれません。どこかで、元気に信仰を送るだろうと納得して平安を得ているのかもしれません。しかし、知ってほしいのです。たとえ元気に信仰生活を送っていたとしても、心に受けた傷はいつも深く眠っているのだということを。

 私がかつて所属したB教会のB主任牧師は、戦時中の迫害下に、主にある兄弟に先代が告発されたことで、数十年たった今も傷を抱えていました(本人は認められないかもしれませんが、語られていた言葉からは許していない思いが伝わってきていました)。そして、その傷を子供たちにも伝えていました。Tカウンセリングスクールで出会ったカトリックのおばあさんは、隠れキリシタンの末裔だと言っていましたが、当時からの理解されない傷を代々受け継いで抱えておられました。まして、幼い羊にとって、神の民である教会を指導しておられる立場の先生方から受けた傷は、癒されがたいものであるということを知ってほしいのです。教会を指導しておられる立場の先生方を通しイエス様を知り、頼りにしている何の聖書知識も権威も持っていない幼い羊にとって、拠り所としていた教会で味わった拒絶は、いきなり谷底に突き落とされたように感じるということを。

 イエス様は、みもとに来た人を、決して切り捨てたりはなさいませんでした。あのイスカリオテ・ユダであっても、最後の最後まで共にいて、見限ることをなさらなかったのです。失敗したペテロを、イエス様が、切り捨ててしまっていたなら、ペンテコステ以降の大収穫(リバイバル)は違ったものとなっていたはずです。私に限るならば、「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(使徒 5:38,39)という態度を取っていてくださっていたなら、かつていたどこの教会においても平和に過ごせたことと思います。永遠のつながり、天において、喜びを共に受ける信仰における育ての父と信じ、三年間、単純に聖書を信じ、心を砕いて祈ってきた指導者に、突然激しい拒絶にあった者の気持ちは、一言では語り尽くせないのです。他のことならばともかく、離れたり忘れたり捨てたりできない神の世界の中で受けた傷は、真剣であればあるほど、癒されたとしても、忘れることはできないのです。一つ一つが、信仰の歩みとなっているのですから。ただ、それを益にしてくださる神がいるということだけを信じて歩むことになります。人からの拒絶にまさる神の恵みの中にとどまり続けるだけです。

 

落ち穂

 これまでに、いろいろなところを通り、教会の内外を問わず、落ち穂の多いことに驚きを覚えています。その皆が同じような境遇であるわけではありませんが、私と同じような境遇の人もいました。中には、腐って悪臭を放ち、臭くなってしまっているかのように見える人(傷によって毒舌を吐いて、信念をもってみことばから離れる人々)もいました。きちんとケア(キリストにある愛による対応)をしていれば、輝いて、イエス様のかぐわしい香りを放っていたかもしれない実が、です。私自身、B1牧師からの教え、Tカウンセリングスクールでの知恵ある学び、Y先生という柔和で広い器による助けがなかったなら、腐って落ちてしまったかもしれません。このような現実を伝えるために話したとしても理解してくださる方は多くはいないことを経験上、よく知っています。教会から落とされた穂「落ち穂」に出会ったある牧師先生は、次々にそのような方に出会っても、その事実を受け止めようとはなさいませんでした。目の前に何人いても、信じたくないようでした。自分にも心当たりがあることだったのか、ある方を自殺にまでも追い込んでいたという経験も通っておられたからでした(きちんと悔い改めるべきところを悔い改めて進んでいるならば、失敗を通ったとしても証となっていることです)。そのような「落ち穂」に出会うにつれ、心を固くしていかれました。人一倍頑張っているという自負がある指導者にとっては、知りたくもない事柄のようでした。一生懸命に、イエス様のために心身を粉にして、献身して来られている教会を指導しておられる立場の先生方にとっては、心外に思われることだと思いますが、決して少なくない教会で起こっている現実です。傷から言っていることではありません。知り合いのクリスチャンの中にもいるのです。昨年通っていたTカウンセリングスクールでは、珍しくないくらい頻繁に出会った問題でした。昨年、C教会で訪問伝道をした中にも、結構いました。教会に尋ねてくる人の中にもいます…。これを放置すると、数年後には、教会にはキリストが見えなくなってしまうことになるでしょう。

 同じ日(心の傷の処理について思いを巡らせていた木曜日の朝)に、主は、ゼカリヤ書のあるみことばを開いてくださいました。

 

ゼカリヤ書の背景

 ここで、ゼカリヤ書が書かれた背景を述べておきます。

 ゼカリヤは、バビロン捕囚からの帰還の民が、神殿の再建中、度重なる異邦人たちの妨害に苦労していた時期に、神殿再建に当たっていたゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ますために送られた預言者です。ゼカリヤ書は、二部に大別でき、14章あるうち、1章から8章までが神殿の再建中に臨んだメッセージ、あとの9章から14章までが神殿完成後のメッセージです。メシアについての預言も多く、豊かな啓示が含まれている書物です。特に、第二部ではメシヤの初臨、再臨についてだけではなく、未来の終末的な出来事に関しての啓示として与えられたことが記されています。

 70年ものバビロン捕囚を経験したユダの民は、困難で苦労の多かった神殿再建の工事が完成するや、気が緩みはじめました。神殿は完成したのですが、国家の回復は起こりそうにもありませんでした。大きな試練を脱出したそのような時は、油断もさることながら、次第に全能の神から目が離れ、世俗的な事柄に目が奪われるものです。

 エゼキエル34章には、自分を肥やしている牧者としいたげの中にある羊の姿が描かれていました。そのような宗教的堕落が、イスラエル国家を離散させる結果に追い込んだのでした。そのような時代でしたが、ゼカリヤ書の第二部で、ゼカリヤは将来への希望と救いを語っているのです。宗教的堕落と残りの民への救いについてです。イエスの受難を語ると同時に終末における患難時のことをも語っていると思えてなりません。パウロは、「主の日は、背教の後、起こる。」と述べている。「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」(Ⅱテサロニケ 2:3)そして、ペテロは、「さばきが神の家から始まる」(Ⅰペテロ 4:17)と言っています。これを我が身に起きないように回避するには、一人一人のクリスチャンがキリストの律法(神への愛と人への愛)に立つ決意をし、自分を吟味して、兄弟愛をもって仕え合うことが大切なのです。

 

エルサレムの救い

 木曜日の朝、ゼカリヤ 12:1-14を読んだ時、主が語られることに、私がどんなときにも不動に固く立つなら、大丈夫だよと主が励ましてくださったような心地がしたのです。私が励まされたように、キリストにある者にとっては、同じ励ましを受ける個所ではないかと思います。

 ここに、主の民への神の徹底的な守りが描かれています。要約すると、「神がエルサレムを守っておられるので、これを攻撃しようとする敵のほうがかえって混乱に陥り、ついには自分たちの上に滅亡を招くことになる」ということです。

 ここで、エルサレムは三つのもので表わされています。「よろめかす杯」(12:2)「重い石」(12:3)「たきぎの中にある火鉢、麦束の中にある燃えているたいまつ」(12:6)

① エルサレムはそれを取り囲むすべてのものに対して「よろめかす杯」となる。「よろめかす」とは神の怒りとさばきを表わし、ぶどう酒を飲むようにたやすく敵はエルサレムの血を流そうとするかもしれないが、実はそれは彼らにとって毒杯になると言う。

② エルサレムは、これを奪い去ろうとするすべてのものに対しては「重い石」となる。人生において一度、徹底的に神によって砕かれた経験のある者を、神は誰も動かすことのできない「重い石」としてくださる。そして、それを自分のもとに奪おうとする者は、逆に傷を受けてしまう。

③ ユダの指導者たちはその周囲に対して「たきぎの中にある火鉢」「麦畑の中にある燃えているたいまつ」のようになる。「彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。」(12:6)

 この前章では、次のようなことばがあります。数ヶ月前に読んだ個所です。「私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった。私は言った。『私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。』」(11:8、9)

 12章10節以降を見てみましょう。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」(12:10-14)ここに書かれているように、ひとりひとりが、罪への嘆きをもって、同輩のためにとりなし、主の恵みを受けとってほしいと思います。この個所によると、それぞれのところから嘆きをもって、受けとめることができるのは、多くはいないようです。しかし、ひとり、またひとりと出てくることを言っているように聞こえたのです。

 この後の13章では、「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。・・万軍の主の御告げ。・・牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。」(13:7-9)となっています。これは、イエス様の受難のことですが、黙示的な要素を含んでおり、何重もの内容が語られていることだと思います。三分の二が滅びることのないために。

 私の教会放浪は、完全数の三つでぜひとも終わりにして欲しいです。願わくば、私の教会放浪記は、これで完結することを祈ります。ここまでは、三つだったけれど、完全数の七つの教会が待っている、ということにならないように主にお願い申し上げます。

 

 

 

落ち穂の会

 

 

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Thursday, March 04, 2021

「小羊うるちゃん物語Ⅳ」part 2 開かれた道

  【前回の登場人物】
    うるちゃん  : 主人公
    へいわくん  : 夫
    サイエンくん : 長男
    W宣教師   : W教会を開拓した宣教師
    Sさん(母娘): Tカウンセリングスクールに来ていた家の教会の伝道師
    Y先生    : K教会の主任牧師
    Kさん    : Tカウンセリングスクールに来ていた求道中の女性

「小羊うるちゃん物語」閲覧にあたっての注意事項

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  あまりにもあっけない展開だったので、今までが今までだったこともあり、だんだんと心配になってきました。本当に、3ヶ月先のサイエンくんの洗礼は実現するのか、またどこかで、できないと言い出されるのではないかと。

 2回目にK教会に足を運んだのは、12月19日(日)のクリスマス礼拝でした。夫が出張で、クリスマス礼拝だというのに、マーサさんと2人の礼拝になることから、行ってみることにしたのでした。奇しくも、A教会で傷を受けた3年後の同じ日(12月19日)でした。ある姉妹の胸に、数週間前のTカウセリングスクールで、話題になっていた手作りのクリスマスツリー型ブローチがあるのに気付きました。うるちゃんも作ろうと思ったのですが、思ったより材料が高価だったので、やめたものでした。「素敵なブローチですね。」と話しかけてみました。その姉妹は、うれしそうに、「あなたにあげる。」と言って、名前を聞いても告げられずに去って行かれたのでした。3年前と同じ日の12月19日に受けたこの行為は、どのような言葉よりもうるちゃんを慰めてくれました。最後の祈りの招きの中、祈りの中うるちゃんの頭に置かれたY牧師の手が暖かく感じられ、「この牧者は、あなたの傷を包み、あなたの牧師不信は癒されていく。」という思いが押し寄せてきたのでした。

 うるちゃんの心配を知っているかのように、うるちゃんの心を揺さぶるような出来事が起きたのです。年が明け、週に一度はTカウセリングスクールで会っていたSさんが、うるちゃんを待っていました。「あなたに、謝ることがある。暮れに、あるつてから、重大なことがわかって・・・。・・・。K教会はやめなさい。本当に申し訳ないことをした。」と(・・・は、性的な非常に下劣な内容だったため省くことにします)。それから、Tカウセリングスクールに行く度に、「祈らないでくれという手紙は出したか?」「きっぱりと、断ち切ったか?」「テープも断ったか?」という執拗なまでの確認と説得が始まったのです。しぶるうるちゃんに、彼女たち(Sさんは、母娘で来ていた)の説得は、激しさを増し加えて行きました。イエス様からではないと思いましたが、戦う気力は、うるちゃんにはありませんでした。Tカウセリングスクールへはカウンセリングの訓練に行っているのに、行けば、暗い重い気持ちになるのでした。さまざまな拒絶にあってきたうるちゃんに、開かれているたった一つの希望の道を自ら閉ざす理由はなく、ただ、すべてをご支配しておられる神に祈るだけでした。C教会の時のように、みこころではない道なら閉ざしてくださることを信じていました。

 Tカウンセリングスクールで出会ったTさんも、自分の教会(F教会)へ来るよう勧めてくださいました。とてもありがたかったし、一度会って話したF牧師は、苦しみの中にいるうるちゃんを励ましてもくださったのだが、断ることにしました。通える場所ではなかったことや、神が祈りによって開いてくださった道がK教会であると信じていたからでした。後で送られたテープ一式の教えに違和感を感じたためでもありました(F教会は一般的な日本のキリスト教の教団でしたが、とある韓国異端の教えをしていて、現在は改革がなされています)。とにかく、洗礼の日を待ちました。待つ数ヶ月、1ヶ月に一度でしたが、K教会に行き、Y先生にふれる度に、Sさんの言ったことが全くの偽りであることもわかってきました。Sさんの言うとおりであったなら、出てくることのない品性がY先生にはあったからでした。

 初めての祈祷会に出かけた時、行きのバスにたまに見かける若い男性が乗っていました。いつも意味のない言葉を大きな声でぶつぶつ言って歩いている男性でした。うるちゃんの後ろに座ったその男性がいきなりうるちゃんの頭をたたいてきたのです(今まで、一度もそのようなことはなかったですし、見たこともありませんでした)。振り向いてみると、目をそらしてぶつぶつ言っていました。顔を見たまま(目をそらされてはいましたが)、声には出さずに祈ってみました。急にその男性は黙ってしまいました。バスを降りたら、呼びとめて、トラクトでもわたせないかな、と思っていたら、バス停に着くやいなや、一目散に走り去ってしまい、あわてたように、無理やり、電車に乗って行ってしまったのでした。

 なぜ、うるちゃんが、一歩踏み出そうとすると、いつも何かあるのか、主に文句を言いたいくらいでした。しかし、主は、いつも勝利を与えてくださっていました。Sさんは、自らの終末の地震についての預言のFAXをキリスト教会や団体あちこちに送りつけ、Tカウンセリングスクールにもいづらくなり、やめていかれました。彼女たちのおかげで、K教会につながったので、このように終わるのは、とても残念でした。

 Y先生は、何も聞かずに(詮索せずに)、ありのままのうるちゃんたちを受け入れてくださいました。そして、ボアズが覆いを広げ、ルツを買い取り、贖ったように、うるちゃんたちの群れの覆いとなってくださったのでした。

 「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。うるちゃんに親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」 (ルツ 2:2)

 その後、落ち穂を集めようとするルツにボアズが言った言葉はこうである。このボアズの言葉は、うるちゃんに言われているような言葉のようにうるちゃんには聞こえたのでした。

 「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。うるちゃんのところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。うるちゃんは若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」(ルツ 2:8、9)

 「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、うるちゃんはすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ 2:11、12)

 「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」(ルツ 2:15、16)

 「ナオミは嫁のルツに言った。『娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。』 それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。」(ルツ 2:22、23)

 その時、うるちゃんの心に、そっとささやく声がしたように思えたのです。 「娘よ。行っておいで。」と。

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 K教会への在籍を祈り、考える過程で、ルツ記の他に、「王を立てようとするのか。」という自分への問いかけもありましたが、マルチン・ルターの宗教改革以来、分裂分派を繰り返していることがつまずきの原因にもなっているケースに出会い、自分自身が新たな分派となったり、独自の思想にかたよったりすることがないように、どこかのきちんとした教団の中で、活動をしたいと思いました。支配する王ではなく、同じ志を持つ同胞の王ならばよいのだという賭けのような選択でしたが、他に道が開かれていないことと、主の導きを信じて、進むことにしたのです。

 「・・・あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」(申命記 17:14-15)

 K教会のY牧師との交わりの中で、C教会のC牧師が栃木の巡回伝道に行った先で一致したと言っていたMT牧師(「小羊うるちゃん物語Ⅲ」part 1-4 教会って何? 参照)とY牧師は知り合いであり、Y牧師がMT牧師側の問題を処理した経緯を偶然聞き、神の正しさとうるちゃんへの配慮をまたまた知ることができたのでした。

 

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  【うるちゃんと教会】
  ★ 誘われたが違和感を感じたF教会(Ⅳpart 2)
  ☆ うるちゃんが電話をかけた「昔からの流れのキリスト教会」(part 1-3)
  ☆ はづきさん所属のA教会(part 1-3)
  ☆ 歩いて1、2分のところにあった近所のH教会(part 2-1)
  ☆ へいわくんの実家近くのA教団のW教会(part 5-4)
  ☆ 行き場をなくしたうるちゃんが飛び込んだB教会(part 5-5)
  ☆ 世界一大きいと聞いていた韓国のY教会(part 5-番外編)
  ☆ 早天祈祷のため行ったJ教会(Ⅱpart 1-5)
  ☆ カウンセラーの聖会に行った日本基督教団H教会(Ⅱpart 1-6)
  ☆ 韓国人牧師が開拓していたC教会(Ⅱpart 1-6)
  ☆ Y教会関係のTカウンセリングスクール(Ⅲpart 1-1)
  ☆ 紹介でつながったA教団のK教会(Ⅳpart 1)
  ☆うるちゃんの実家の地域のA教団のMA教会(Ⅳpart 1)
  ☆ へいわくんの実家近くのA教団の宣教師宅のMI教会(Ⅳpart 1)



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Tuesday, March 02, 2021

「小羊うるちゃん物語Ⅳ」part 1 落ち穂

  【「小羊うるちゃん物語Ⅲ」の登場人物】
    うるちゃん    : 主人公
    へいわくん    : 夫
    なごみちゃん   : 長女
    サイエンくん   : 長男
    マーサさん      : B教会で知り合い友人になったクリスチャン
    A牧師        : A教会の牧師
    Dチャプレン     : A牧師の友人である米軍基地のチャプレン
    B1牧師       : B教会の主任牧師の長男である牧師
    C牧師(夫人)   : C教会の牧師(夫人)
    MT牧師      : ペンテコステ系では有名だった牧師

「小羊うるちゃん物語」閲覧にあたっての注意事項

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  「私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」 (ルツ 2:2)

 ある日、Tカウンセリングスクールのロールプレイで、サイエンくんの洗礼がだめになったことを知った同じクラスのSさん(N県にある家の教会、女性の伝道師)が、K教会へ誘ってくださいました。「K教会のY先生は、うるちゃんたちのような家の教会のフォローもしてくださっている方だし、テレビ伝道もされている方だから、なんとかしてくださるはずよ。礼拝メッセージのテープも送ってくださるから。ミラクル聖会が月に一度あるから、一緒に行ってみようよ。同じクラスのKさんも行くから。一度、手紙で相談してみたら?」と。いろいろな所を通ったあまりに牧師不信に陥っているうるちゃんは、そのように言われたところで、出す気になれませんでした。一週間がたち、「手紙、出した?」と聞かれ、「出していない。」と答えました。「Y先生に話ししてあるんだよ。手紙待っているよ。早く出しなさいよ。」という言葉に押されるように手紙を出してみました。K教会までは遠いので、悪い返事が来ても、顔を合わせることもないだろうという思いもどこかにありました。しかし、Sさんに聞いたK教会のホームページを見てみると、「どなたでも、歓迎します。」とあり、「本当かな?」と思う反面、わずかな希望もわいてきたのでした。1999年10月末のことでした。出した手紙の内容は、「事情があって、家の教会をやっているのだが、これから先、どうやっていけばいいのか相談にのってほしい」というものでした。すぐに届いたY先生からの返事は、「いつか、教会に訪ねていらっしゃい。」という内容でした。

 わらにもすがりたいというような時期であったので、祈りの応答かもしれないと思い、誘われるままに行ってみました。1999年12月4日(土)のことでした。C教会のC牧師のところにいた時から、ずっと、うるちゃんたちの群れ(家の礼拝)の面倒を見てくださる覆いとなる牧師・教会を与えてくださいと祈っていました。それに、今までの歩みの中、うるちゃんは、悪いものという確証がない限り、断る必要はないという信念を持っていたのでした。Sさんが、Y先生に話をし、あっけなく、礼拝テープのことも、サイエンくんの洗礼のことも受けてくださることになったのでした。Y先生と話をすると、うるちゃんが郷里への里帰りで実家に行った折に行ったMA教会(以後行く機会がなく一度だけ行ったにすぎないが)や、夫の実家に行った時に行っているW教会と同じ教団でつながりがあることがわかったのでした。特に、W教会のW宣教師はよくご存知のようでした。W教会は、うるちゃんたち夫婦が救われた頃、礼拝を休みたくない一心で祈って与えられたところであり、思い入れの深い教会でした。「A教団の教会で、礼拝の場を与えてください。」と、へいわくんの実家へ向かう車の中、声をあげ祈ったのでした。単立ではないペンテコステ系のA教団の教会ならば、安心して行けるのではないかと思ったからでした。土曜日であったので、明日の礼拝の場を与えてほしい一心でした。

 実家につくと、昔からの流れのキリスト教の信者の母が、一枚のトラクトを差し出したのです。「あなたたちに、渡そうと思って、この間、ポストに入っていたものを取っておいたよ。」 見ると、近くの宣教師宅で行なわれている礼拝の案内状でした。当時、自宅を開いて教会をしてらしたW宣教師の牧するMI教会との出会いでした(その後、教会の場を移され、「W教会」となりました)。W宣教師家族は、しばらくアメリカに戻っておられ、先日、日本に戻って来られたばかりであることも聞き、主の恵みを実感したのでした。へいわくんの実家には一年に一度くらいしか、行っていなかったのですが、帰省するのが更に楽しみになったものでした。

 Y先生との短い談話の時でしたが、どのような人をも拒絶しない暖かさを感じました。

 

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  【うるちゃんと教会】
  ★ 紹介でつながったA教団のK教会(Ⅳpart 1)
  ★ うるちゃんの実家の地域のA教団のMA教会(Ⅳpart 1)
  ★ へいわくんの実家近くのA教団の宣教師宅のMI教会(Ⅳpart 1)
  ☆ うるちゃんが電話をかけた「昔からの流れのキリスト教会」(part 1-3)
  ☆ はづきさん所属のA教会(part 1-3)
  ☆ 歩いて1、2分のところにあった近所のH教会(part 2-1)
  ☆ へいわくんの実家近くのA教団のW教会(part 5-4)
  ☆ 行き場をなくしたうるちゃんが飛び込んだB教会(part 5-5)
  ☆ 世界一大きいと聞いていた韓国のY教会(part 5-番外編)
  ☆ 早天祈祷のため行ったJ教会(Ⅱpart 1-5)
  ☆ カウンセラーの聖会に行った日本基督教団H教会(Ⅱpart 1-6)
  ☆ 韓国人牧師が開拓していたC教会(Ⅱpart 1-6)
  ☆ Y教会関係のTカウンセリングスクール(Ⅲpart 1-1)



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