キャンプ終了
キャンプから娘が帰ってきた。
5日間は長かったよう。
何をしたか聞いてみたら、「水かけっこ」「生クリーム飛ばし(?)」「ライブ」だそう。
もちろん、お話の時間もいっぱいあって恵まれる中、楽しんだようだ。
雨に降られて、外でのプログラムは中止となったようだった。
キャンプから娘が帰ってきた。
5日間は長かったよう。
何をしたか聞いてみたら、「水かけっこ」「生クリーム飛ばし(?)」「ライブ」だそう。
もちろん、お話の時間もいっぱいあって恵まれる中、楽しんだようだ。
雨に降られて、外でのプログラムは中止となったようだった。
今日から、娘は、4泊5日の教会キャンプです。
場所は、長野のお山の教会所有のキャンプ場です。
5日間、俗世間を離れて、テレビやパソコンのない生活です。
リフレッシュされてくるでしょいか??? おみやげ話が楽しみです。
今日からお盆休み。
この休日を利用して、夫とお祈りの旅へ。
日光のオリーブの里へ行ってきました。
関東栄光祈祷院だった何年か前に、子供キャンプで、一度来たことがあったんだけど、きれいな施設や温泉ができ、快適でした。
食事もおいしくいただきました。
ただこの時期、団体さんが多いので、静かに祈るには、別の時期に来たほうがよかったかなぁ…。
また行きたいです。
今日の第3礼拝は特別礼拝。フィリピンのテオデュロ・マランゲン師のメッセージでした。
私のこと???と思えるようなメッセージが語られ、大変恵まれました。
私だけではなく、多くの人たちが癒しや解放を受けたのではないかな・・・?
田舎から2週間仕事の研究に来ていた姉。
住んでいる寮が息苦しいとかで、教会に誘ってみたら、やってきた。
奇跡ですぅ(^0_0^)
姉の住んでいる環境は、キリスト教はヤソ教の世界だから…。
教会は、信仰に興味がなくても、誰でもどんな人でも来会を歓迎します。
「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ 2:1)
聖書は、「さばいてはいけません」と言い、「互いに戒めなさい」とも言う。
みことばは、一部をとって解釈するものではなく、神の愛によって、全体的に見るものである。
知ったことを、まとめておくと便利である。「罪・さばき」
聖書は、知っても知っても知り尽くせない神の奥義が詰まっている。
いろいろやりたいことがあったんだけど、PCをいじり始めたら、途中でやめられず、一日が終わった。
J-ばいぶる関連ソフトのインストールに苦労した。
バージョンが変わっているのと、Vistaへの対応に苦労したのである。
制作されたN先生にメールで尋ねると、すみやかに回答をくださった。
J-ばいぶるは、聖書の学びには欠かせないソフトです。
今日の礼拝は、「召天記念礼拝」だった。
ウィルスに脳が侵されて、たまねぎの皮をむくように、徐々に記憶が抜け落ち、認知症のような症状の病気で亡くなった人の証が印象的であった。
徐々に記憶がなくなり、最後に残った中央部分は、何だったか?
毎日日誌をつける職業だったその人は、最後まで事細かに行動日誌をつけたそうである。
そして、その合間に書かれていたのが、神様への感謝の言葉、賛美であったそうである。
主としっかりと結ばれ、不平や不満ではなく、賛美が残るなんて、すばらしい生き方だったんだなぁ、と感動を覚えた。
私も、どんな状態になっても、神さまだけは残るような生き方ができれば…と思うけれど、まだまだです。

昨日、平安に守られ、喜びと賛美がわくと書いたが、こう書くと、今日は、試されているかのような出来事があった。
仕事上の人間関係においてだが、一方的なこばかにした言動にムカつきを覚え、怒りがおさまらなかった。
昨日、ああ書いたばかりなのに…、とがっくりきた。
人間、こんなものである。
主を見上げ、怒りを主に言い表した。主が知ってくださっている。平安に包まれた。
一進一退、しかし、徐々に進歩している。
だって、主を知らなかった頃は、もっと怒っていただろうから。
※ 聖書の教えは、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ 4:26)です。
正しい怒りは、神が与えてくださった感情です。
聖書に書かれている御霊の実に、「寛容」「自制」ってあるけど、何でも忍耐すればよいわけではない。
昔の日本人は、がまん強かった。というより、がまんするしかなかった。
がまんを強いられて、心病む人が多い現代、がまんしなければいけないことと、しなくてもいいことがある。
見分けるポイントは、がまんすることによって、神さまの栄光が現れるかどうかである。
今日の昼休みに、主イエスが語ってくださり、喜びが湧き上がってきたことばである。
パウロは、主に従っていない偽の指導者たちを耐え忍んでいたクリスチャンに書き送っている。
「あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。
事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。」(Ⅱコリント 11:19,20)
がまんした結果、心病むなら、主の栄光どころではない。
いずれにしても、忍耐は、主がご自身の似姿に近づけてくださるために、自然になさせてくださる恵みであり、喜びが伴う。
自然にできなければ、しなくてもよい。いつか、いろいろなことを通して、主が完成させてくださることなのだから。
※ イラストのような忍耐は、してはいけない忍耐です。御霊の実である自制を教えなきゃ!

一昨日、夫といっしょに、日野駅まで散歩した。
途中、娘が赤ちゃんのときに、公園友達とよく行った森林公園を通った。
都営団地が建て替えられたが、森林公園はきれいな遊歩道もできて残っていた。
中ほどに行くと、パネル展示物があった。
とある牧師の話という字が目につき、読んでみた。
どこかで聞いたことのあるストーン牧師の話であった。
船が難破し、海の中で、おぼれゆく人に、自分の胴着を与え死んでいった、死ぬまでキリストに忠実だった牧師である。
この地がストーン牧師ゆかりの地だったとは知らなかった。
またこの公園が好きになった。
今日、教会で購入した本に書かれていたみことばが、改めて心に染み入ってきた。
「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある」(伝道者の書 3:7)
聖書の信仰者がどのように引き裂かれ、縫い合わされたか書かれていた。
神が引き裂くときは、さらに豊かな調和のため、豊かな実を結ぶためということである。
主イエスのわざは時にかなって美しいもの、困難な時も、必ず祝福となる。
同じ系列教会の若者の礼拝に行ってきました。
朝早いのに、割と多くの人が来て、礼拝していました。
メッセージ箇所はⅡコリント12:9,10「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」というところから。
親に捨てられたスラム街の孤児の男の子がお腹をすかせてすわっていたところ、3日目に、奇特な人の補助で教会のキャンプに行かせてもらい、主に出会って変えられ、命がけの伝道をしているという証が話されました。
実際に2人の仲間が銃で撃たれたり、危ない目にあったりしている中、主を伝えているということでした。
親に捨てられても、誰かに見捨てられても、主の愛があれば、人は変わるのだと改めて感動しました。
強くあろうとすればするほど、人は罪を重ねていき、自分を滅ぼしてしまいかねないもんね。
イエスさま見上げて、喜ばれる働きを心がけ、歩んでいきたいです☆
今年の大晦日は日曜日。忙しい時期でもあり、大和の礼拝におじゃましました。
俳優の村田雄浩さんに似た副牧師さんがメッセージを取り次がれました。
先日亡くなられたアメリカのフォード元大統領の話に感銘を受けました。
フォード元大統領は聖書信仰に立ったクリスチャンだったそうです。
アメリカ国民の「フォード大統領ありがとう。傷を深めないでくれてありがとう。自分を犠牲にしてでも国が癒されるための決断をしてくれてありがとう。赦しを選んでくれてありがとう。」という言葉が心に暖かく響いてきました。
1年の締めくくりとしてとても恵まれた礼拝でした。
メッセージを取り次がれた先生に感謝するとともに、いつもともにいてくださる主に感謝します。
昨日と今日、別の場所で同じ話を聞きました。
今月始めにあったアメリカのアーミッシュが殺された事件のことです。
犯人は、始めから10人の少女を殺そうと10本の木を用意していたと言います。
犯人は名前を呼んで殺していったそうですが、小さい子どものことを思い、13歳の少女が「代わりに自分を殺してくれ。」と申し出たと言います。
同じように撃たれた妹が意識を回復し証言したんだそうです。
聖書を厳格に守り、身代わり愛を実践し、加害者の家族をも赦し、ともに葬儀に参列したアーミッシュの人々の信仰から出た意思はすごいです(^0_0^)。
まねしようと思ってできるものではありません。
宗派はいろいろあっても、キリストの愛は変わりません。
逆に愛のない教えは、キリストを語っていても、もはやキリスト教ではなくなっています。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Ⅰヨハネ 4:8)
アーミッシュの人たちに主からの慰めが豊かにありますように。
そして少女たちの死が無駄にはならず、加害者の家族の心に届きますように。
日曜日に訪ねた教会の週報がふと目にとまり、読み返すと、今、必要としていることばが書かれていた。
毎日配信してくださっている広島バプテスト教会のみことばも、日々、ぴったりのことばが送られてくる。
時には、どこかで見ていた?というようなことばが語られている。
インマヌエルなる(いつもともにおられる)神は、私たちひとりひとりを愛し、よく知っておられる。
昨夜から、右目にごみが入っているようで、時々、変だった。
ミントの毛かなって感じだった。
仕事をしていて気になるので、鏡で見ると、まつげに絡んでいた。
何年か前になるが、まつげが入ったような感じがして、取ろうと思ってもなかなか取れなかったことがあった。
苦労して取ってみると、セミロングだった私の髪の毛だった。
ハンドベルの練習で、テーブルに乗って遊んでいる男の子を母親が注意せず、遊ばせていた。
それを見て、一緒にいたUさんが怪訝そうな顔をしていた。
しつけには、わりと厳しい人であった。
目に異物感を感じたのは、「小さな子のこと、そんな顔をして、さばかなくてもいいじゃない。」そう思った瞬間のことであった。
目のはりであった。
Uさんは、子どものしつけにおいて、正しく感じていただけである。
人をさばいていたのは、Uさんではなく、私情をはさんで、甘く見た私だったのである。
正しくさばき、治めることは、人間関係において、大切なことでもある。
「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」(ルカ 6:41,42)
クリスマスって、この上もない喜びが起こった日を覚えて、祝う日です。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ 2:11,12)
人類を罪から救うために、神が人の形をとって来られた日です。
処女マリヤに聖霊によって宿った主イエス。
住民登録のため、長旅をしてベツレヘムにやってきたマリヤにお産のため用意された場所は、家畜小屋だったんだって。
今の私たちだったら、「疲れた、しんどい~、臭い~」と言いそうな環境の中だったんです。
マリヤさんってえらい☆ (そうだよねぇ、だから神様がお選びになったんだよねぇ…)
教会のHさんの話。
Hさんは、教会の早天祈祷会に出たいために、毎朝、自転車で40分かけて、通っていたそうです。
雨の日などは、歩くと2時間かかるため、夜中の2時に起きて出かけていたそうです。
そんなある日、早天祈祷会を終えて帰路に着くと、交通事故に巻き込まれてしまいました。
家族が心配するため、行くことを控えてしまいました。
何日かして、毎朝来ていたHさんの姿が見えないことを心配した牧師さんから電話があり、やっぱり通いたいという願いが起きました。
自転車では危ないため、電車で、夜の終電前に教会に行くことにすることにしました。(朝は、電車がまだないため)
電車で通い、夜を教会で過ごし、恵まれた日々を過ごしていたHさん、今度は、教会に来る途中、ひったくりにかばんをひったくられてしまいました。
Hさんを心配した牧師夫人に、「女性が夜来るのは、危ないから」と言われて、Hさんは、明るい昼間に教会に来て、教会で過ごすようになったそうです。
今、Hさんは、教会の管理人として召され、家族ともども祝福された人生を送っていらっしゃいます。
神さまへの熱い思い、敬服します。
7月から新しく採用された3人のパートさん。
1人は、3日目で早々にやめていかれました。
「一期一会」(7月11日のコラム)で出会いは偶然ではなく、神さまの御手の中と書きましたが、なんと、その中の1人、Yさんの妹はアメリカ仕込みの新生されたクリスチャンでした。
Yさんも妹さんが伝える神さまに惹かれ、時々、教会に足を運んでおられるのだそう。
会社で信仰の話を、しかもきれいなYさんと、堂々とできるなんて、楽しくなっちゃいます(今まで控えめにしかできなかった…)。
ほんと、神さまって、粋なことをしてくださいます☆
神さま、この交わりをお守りくださり、祝福してください☆
牧師先生とのお話とスタッフ祈祷会のため、本教会へ。
最近、いつも待っていて、ともに祈ってくださるHさん。
教会や人のためによく祈っておられる祈りの人だ。
今日も、言わなくても問題を察知して祈ってくださった。
幻とともに、神さまからのアドバイスも与えられ、励ましを受けた。
感謝です。
あっ、祈りといえば…。
「祈るとき、手と手を合わせるのはなぜか。それは、片手が自分の自我(嫌な思い、欲望など)、もう片方の手はキリストに通じている。手と手を合わせて祈ることによって、握りしめていた自我がもう片方の手に、す~っとすいとられていく。」というメッセージを聞きました。
そう思って祈れば、祈るたびに、なんだかすべてを吸い取って新しくしてくださるうれしさが増していくんです。
この間、教会の祈祷会で聞いてウケた話。
「プリクラ行こう」と行ったら、友人なんかと、顔写真シールを撮りに行くことですよね。
ある教会で、若い子に「プリクラ行こう」と行ったら、それは、長老(聖書で長老は指導する役職)の家に行こうということだそうだ。
聖書にプリスカとアクラという夫婦が出てくるが、この夫婦は、クリスチャンの交わりのために、家を開いて家の教会としていた。
若い子も年寄りも、隔てのない交わりをするところから、プリスカとアクラの名前をとって、「プリクラ」と言っているそうだ。
中・高校生くらいの子が「プリクラ行こう」と言って、長老の家に聖書を中心にした交わりに集う姿を想像すると、ほほえましく笑ってしまった。
あなたも、プリクラに来てみませんか?
本屋で見つけた猫の写真集、「いっしょにいさせて」(photo Hiroji Kazuo、 いのちのことば社フォレストブック発行、¥1100+税)
パソコンの上でなごんでいる猫の表紙。
中を見ると、猫の写真に写真にぴったりの英語と日本語のみことばが添えられている。
立ち上がってドアをカリカリしている猫の写真には、「求めなさい。そうすれば与えられます。たたきなさい。そうすれば開かれます。」のみことばが、
ピンクの肉球がついた白い猫の手がにゅーと伸びている写真には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」が添えられている。
見た途端、気に入ってしまった。このセンス(^O^) 猫の表情もなかなかのものだ(=^・・^=)
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今日行ったパン屋には珍しいパンがありました。
枝豆の入った薄い酵母パンや抹茶小豆スコーン、メロンクリーム入りメロン蒸しパンなどです。
美味でした。
血液サラサラと書いてあったポップにつられて買ったフランスパン大のくるみパンもおいしかったです。
微妙な塩味が絶品でした。くせになりそう…。
会社の最寄り駅のパン屋に売っているカスタードコロネもおいしいです。
でもこの店で気に入ったのはこのコロネだけでした。
私はグルメ(といっても、安全で安くておいしいものじゃないとダメ)なんです。
小さいときは小食で、給食はいつも居残って食べさせられていたんです。
そのことが、トラウマ?になって、しばらくは、食べなくてはならないという状況におかれると、体が食物を受け付けなくなっていました。
それでなのか、好き嫌いはないんですが、食べ物には少しうるさいほう。
聖書のみことばにもグルメで、みことばという最上の素材をおいしく調理してないとダメなんです。
特に愛の調味料のかわりに、まずい変な味付けがしてあったりすると、もうダメ、体が受け付けません。
まだ何の味をもつけないほうがましです。
おいしいみことばレストランが増えればいいなぁ。
ちなみに一番おいしかったのは、私が行っていた新宿の大久保にある単立のきよめ系の教会のA師によるメッセージでした。
ほんと、おいしかったです。
異言を否定していなかったなら、よかったのになぁ…。ザンネン彡
※ パンはみんなで仲良くお昼に食べました。
今日、5月29日(日)は、11年前、私たち夫婦が受洗した洗礼記念日です。
川の上流での式でした。
なかなか洗礼の日が決まらず、祈っていると、「夫とともに洗礼させてくださるのかも…」という思いが与えられ、祈っていると、わずか10日前に、夫が信仰告白し、イエスを主と受け入れたのでした。
それ以来、楽しいことも、苦しいことも、神さまの恵みのうちに、歩めていることが感謝です。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ 5:14)
※ 洗礼式は、おごそかな式です。私も厳粛にうけましたよ。
そりゃあ、ちょっとだけ、「泳げないけど、大丈夫かなぁ…」とは言ったけど。
明日は情報処理試験のため礼拝できない夫が礼拝するために、交わりのある近くのアッセンブリー教会に一緒に土曜礼拝に行ってきました。
家庭的な雰囲気のある礼拝で、今後の関わりが楽しみです。
明日は、落ち穂の会の礼拝の司会の夫が不在のため、今度は日曜礼拝に、会の人たちと一緒に、行くんですよ。
1年に1~2回、夫は、会社の指示で、試験に行くんですが、いつも日曜日なんです(試験はいろいろな種類がある)。
土曜日や祝日にしてほしいけど、おかげで、夫と地域教会の交わりができたので、結果的には良かったか・・・。
※ イラストは、教会の礼拝は、神さまを知りたい人ならば、そのままの姿で、誰でも気軽に来てよい場だということを現したものです。いろいろな雑用に心を寄せての礼拝であっても、神さまが語ってくださるからです。実際は、夫も私もきちんと神さまをあがめてきたんですよ(^_-)-☆
今日はイースター。
主のよみがえりを記念する日で復活祭ともいう。
よみがえりを祝うことからいろいろな植物が芽吹く春の訪れを祝う意味にもなっている。
毎年、イースターの日にちは変わり、春分の日(北半球も南半球も3月21日に固定して考える)の後の最初の満月の日の後の日曜日である。
これは、長年の論争を経て、325年のニカイア公会議で決められたらしい。
「イースター」(Easter:英語)は、チュートン族(ゲルマン系の部族)の春の女神、 「イーアスター(Eostre)」 にちなんで名づけられたものだとも言われている。
神であられるイエス・キリストが人の姿で地上に来られたことを記念するのがクリスマスなら、イエス・キリストが私たち人類の罪を贖うために十字架にかかってくださって、3日後によみがえられたことを記念するのがイースターである。
イースターは、キリスト教会で最も大事な祝日である。
余談だが、モアイ像で有名なイースター島は、1722年のイースターの日に発見されたことから名付けられたそうである。
写真は、落ち穂の会のイースターエッグ(右はポプリ入り)。
今日は、私の記念すべきペンテコステの日。
ペンテコステとは、「主イエスが十字架から復活してから50日目の聖霊が使徒たちに降りたことを 記念する日」であり、キリスト教では、今年は、5月15日となっているが、私は、11年前の今日、聖霊に満たしていただいた。
聖霊にゆだねて、ともに人生を歩めるという驚くばかりの恵み(Amazing Grace)を体験した日である。
このような体験を認めない人々もいるが、事実は事実であり、否定しようもないのである。
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っている人生は、つらいことがあっても、結局は、「人生っておもしろいなぁ」と言えるのである。
イラストは、旧約のいけにえが廃棄され、聖霊の恵みの時代になったことを表したものです(こじつけですけど、苦しいかな?)。
現在、占いブームであるという。
占いに依存している人も多いのだとテレビで言っていた。
私もン年前の若かりしころのブーム時に、友人と新宿で占いをしてもらったことがある。
確か「22歳で結婚できなければ、あなたは一生できない」とかなんとか言われたような・・・。
私は23歳で現在の夫(夫は今も昔もひとりしかいないが)と結婚しました。
クリスチャンになった子育て友だちであったMさんのご主人などは、「クリスチャンには、決してなってはいけない」と言われたそうな。
そのように占いをしたこともあったが、私も、Mさんのご主人も、その後、それよりも確かなものを見出した。
写真の本は、「讃美の力」(マーリン・キャロザース著、生ける水の川発行、1600円)である。
副題に―神の力を体験する道―とある。
副題だけ見れば、怪しげだが、オカルトの類ではなく、聖書のみことばにそったものである。
私は、この本で、占いより確実なものを見出した。
驚くべき奇跡を体験できる道が書かれている本なので、興味のある方は読んでみて (^_-)-☆
今週の産経新聞の「凛として」のコーナーは全5回の斎藤宗次郎の特集だった。
落ち穂友だちのJさんにその記事のことを聞いて、見てみた。
斎藤宗次郎氏は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルとなったといわれているキリスト者である。
イラストは、新聞配達をする宗次郎氏の写真を見て書いたもの。(夫が)
今まで温和なイメージしかなかったのだが、信念に対しては頑固な面があったようだ。
そんな宗次郎氏に対する内村鑑三のアドバイス(周囲に配慮すること)は、矛盾しているようであるが、真理だと思えた。
矛盾ではなく、TPOに応じてキリストの愛に立つことが大切なのである。
神への愛にとどまっていた人であったのだということがよくわかった。
同じキリスト教の違う宗派からの攻撃があったという記事(3月9日)を見て、こんな昔から、いろいろごちゃごちゃしていたんだなぁとため息が出た=}
我が家の猫、ミントは、棚など高い所から飛び降りるとき、音がする。
「ぷきゅ☆」というような小さな音である。
肉球になにか音が出るしかけでも…?というような音である。
赤ちゃん用の音が出るサンダルが鳴ったような音である。
何でそんな音が、どこから出てるのか最初の頃は不思議であった。
かけ声なのか、息の音なのか、それとも衝撃で痛くて思わず出るのか、今でもわからないが、何か言っているようだ。
滅多に鳴かないのだが・・・。(鳴くのは好物のごはんが出たときと、おんも〈外〉に出たがるときぐらいである)
今日も、「ぷきゅ☆」と音がしていた。
聖書に、猫のことが出ていた。
「四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くもの(猫、犬、熊など)はみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。」(レビ 11:27)
これは、食べ物の規定で食べてよいきよいものと食べてはいけない汚れたものを述べた箇所で述べられている。
キリストが来られた後では、神がきよめたものはきよいとされたが。
掟がないと、食べたのだろうか・・・? 世界には食べている部族もいるのだから、食べたんだろうな。
息子の子育て友達のTさんが作っていた家庭新聞を我が家でも作ろう!と、さくら通信を1993年2月に創刊した。
キリストを受け入れるちょうど一年前だった。
遠く離れた両親や友人に見てもらおうと、月2回の発行だった。
つらい出来事により、書けなくなる1996年12月まで文は私、絵は夫の担当で続いた。
その後、書こうとしても、書けなくなっていたのが、こうして書けるようになったことは、恵みである。
当時を振り返り読んでみると、子どもたちが育っていく様子とともに、キリストを受け入れる一年前から、受け入れ、受洗し、3年後のとある日までの日常の生活が綴られていた。
周囲がどう変わろうとも、キリストの愛と恵みは、ずっと変わっていないなあと改めて思った。
我が家の宝物である。
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